A fact of life

25歳 院生 直面している現実

映画JOKERをみました。

映画「JOKER」を観て思ったこと。

JOKERを観てきました。留学に来てからも映画を映画館で見るのはやめられない。

徒歩5分圏内に映画館あったら見に行くしかないよね。

もちろん英語で、字幕はフィンランド語とスウェーデン語。

自分の耳を頼りに聞いていくしかないわけです。

自分の英語力はそんなに高くないので正直5~6割しか聞き取れてないんですが、

えらいもんで、結構何言ってるかわかるというか、これがどういうシーンだな、っていうのは

わかるわけです。細かい笑いとかについてけてないのは自分の力不足を痛感。

 

さて映画「JOKER」ですが、調子の良いアメコミシリーズですね。

今年はといえば超大作「エンドゲーム」がありましたが、MARVELはあれで一区切りついてた感あります。

今回はDCシリーズですね。DCシリーズは正直あまり見てないですが、

「アクアマン」とか「シャザム」は映画館で見ました。

どちらも面白かったです。あんまりうじうじしてない両作だったので、

まさにヒーロー映画という印象でした。

さて、ジョーカーについてですが、この作品を語る上で欠かせないのは

ダークナイト」ですよね。

ジョーカー役のヒースレジャーがこの作品の後に亡くなっている、ということも込みで、

彼の怪演が都市伝説じみた記憶に残っている人も少なくないでしょう。

実際「ダークナイト」に関してはバットマン三部作でも特に語られることが多い。

というかこれしか見たことない人も多いのでは?自分もそうです。

これがあるから今回の「JOKER」は越える必要のあるハードルがあるわけですね。

絶対に比較される!

しかし予告見た限りめちゃめちゃかっこいい。この時点で期待のハードルも上がる。

いかにしてJOKERが出来上がったのか、っていうのが今作の肝なので、

また違った、狂ってしまう前の、またそこに何があったのかっていうことも込みで楽しみでした。

 

以下ネタバレ

見た感想としては、ヒーロー映画にありがちな第三者視点ではなく、

このゴッサムシティと自分の生きている世界が地続きでつながっているような錯覚を覚えるような、

実際昨今の香港の情勢など思い起こしてしまうような重なるシーンもあったわけです。

ヒーロー映画ってどうしても非現実的な力が出てきて、他人事、フィクションの世界のような気がしてしまいます。

しかしながら今回の作品に関してはそう言った非日常は全くと言っていいほど出てきません。

あくまでも一人の中年男性の視点から作品が描かれている。

ここで面白いのは「主観」というトリックを使っており、

あれ?これ現実?妄想?といった仕掛けが随所でなされており、

特に最後の暴動のシーン。どこまでが現実でどこまでが妄想なのか、っていう線引きを

最後の病院のシーンで視聴者には委ねられるわけです。

 

冒頭のあたりの話はもう見ていて胸が苦しくなるような「辛い」シーンが多い。

この「辛さ」っていうのは、現実的なものであって、

見る人によっては辛さが変わるのではないでしょうか。

舞台設定としては今よりもだいぶ昔なので抱えている問題も少し違うような気もしますが、

介護であったり、障害、貧困、労働、就職うーん全部通暁している。

また主人公のアーサーもこれらの問題を一身に引き受ける人なわけで、

そうした人物の主観から世界が描かれるわけです。

まさに夢も希望もない。

物語の中盤でアーサーが証券マン三人に絡まれてはずみで殺してしまいます。

ここも身なりの整った三人が酔って電車に乗っているところと、

アーサーのピエロの格好をして電車に乗っているところの対比、

絡まれて暴力を振られる。しかしながら拳銃によって立場が逆転して、

二人は早々に拳銃で撃たれて死にますが、一人は命からがら電車から逃れますが、

アーサーに追われて銃で撃たれて死んでしまいます。

この瞬間にジョーカーが誕生したと考えます。

なぜならこの一人は殺さなくてもよかったからです。

もちろんこいつを生かしておけば何かを話すかもしれないですが、

はずみで、正当防衛を主張することはできたかもしれません。

しかし電車から逃げた彼を追っかけるシーン。

ここに一種の狂気が孕んでおり、「あ、これはやるわ」

と視聴者は確信し、一種のカタルシスを得ることができます。

この辺りから徐々にアーサーの中で何かが変わり始めます。

視聴者的にはいつその狂気が爆発するのか、という期待を膨らませながら視聴するわけです。

ただこの後見ていくと、「あれ?人生上手く行き始めてね?」

となるわけです。

視聴者的にはそこからの転落人生から狂気が爆発するのか、を観たいんですが。

ここに仕掛けが組み込まれていて、まさに現実と幻想。

視聴者は幻想の中にいた、と。

そして母親に関する真実を知り、母親を絞め殺します。

(このシーンがかなりきつかった)

ここからがいよいよ坂を下っていくシーンです。

テレビ出演も決まり、ウキウキで準備をしているところに当時の同僚二人が。

扉を開ける前にハサミをズボンに忍ばせ迎え入れる。

同僚の一人をハサミで滅多刺しにして殺して、

この後どうなる?ってなったところで、もう一人は普通に帰します。

扉が開けられないシーン笑いました。

時代背景を考慮すると彼もまた虐げられる側の人間だったのかもしれないですが、

そこにアーサーは彼に少し友情を抱いていたのかもしれないです。

こっからがクライマックス。

警察に追われチェイスかと思いきや速攻でずっこけます。

しかし運良くのった電車には大量のジョーカー模倣犯が。

警察は銃を発砲したことで袋叩きにあい、その間に脱出成功。

この電車を降りて歩いていくシーン最高にかっこいい。

そしてテレビ出演の直前に自らを「ジョーカー」と呼ぶように言いテレビ出演。

この司会者の人が難しくて、アーサーの憧れでもあり、まさにチャンスをくれた人、

いわば恩人のような存在ですが、アーサーを笑い者にしているという点も一つあります。

最後の問答の末にアーサーは銃で撃ってしまいますが、

司会者の方は正論言ってるわけです。

しかしながらもはや正しいとか、正しくないとか、そういう話じゃない。

そういう価値判断では判断できない状態。

このあたりがまさに「無敵の人」なわけです。

社会や人に散々虐げられてきた人が我慢に我慢を重ね

ついに爆発した。爆発してしまったからこそ、その様子がテレビ放送され、

街に出てみると暴動、カーニバルが始まっているわけです。

この瞬間にカタルシスが感じられ、その様子をパトカー越しに見ている

アーサーはうっとりとした恍惚の表情を浮かべるわけです。

そこに救急車がぶつかりアーサーは暴徒たちに担ぎ上げられ一つのシンボルとして、

この街のかかえる不安や不満の象徴になったわけです。

こんな街に絶対に住みたくない!

この後精神病院に移り、最後追いかけっこをしているシーンで終わるわけですが、

ここだけ切り取ってみればまさに喜劇なわけで。

しかし、あれいつ捕まったの?っていうことを皆思うわけです。

もしかしたら最初から捕まってて今までのは全て妄想?

っていうような視聴者の解釈を委ねたわけです。すごい。

ここに感動した。

 

暴動のシーンですが、ウェイン夫妻も撃ち殺されて、そこに残された少年のカットが残ります。

彼がのちのバットマンになるわけですが、

正直バットマンは大金持ちなので、この「格差」をまざまざと見せつけられると、

「いやでもお前貧困とか関係ないじゃん」みたいなこと思ってしまう。

少なくともこの映画を見た直前では。

金にものを言わせて正義語られてもなーみたいな。

それだけ現在の社会的な部分とのリンクが感じられる映画。

そんな価値の逆転を、一人の男の目線から見せられた、すごい映画でした。