A fact of life

25歳 院生 直面している現実

クリエイターとアーティスト

留学をしてから常々思っている事の一つは、

何かを生み出す事それから表現する事に対しての畏敬の念である。

行くところがあまりないから今までいかなかったような美術館を訪れる機会が増えて、

様々な作品を見るたびに、自分の中にある思考、思想、いろんなものをアートとして具現化する、表出する事から様々な事を考える。

その表象されたものを現実に物質に置き換える事が人間にしかできない事のように思えてきて、またそれに価値を感じたり、感動したりできるのもまた人間にのみ与えられた感情、感受性なのかと思い知らされる。

自分はもともと音楽が好きだったが、音楽もまた自分の頭の中にあるものを音として表出したもので、本来音は形に残らない一回性のその時だけのものだったが、今はデータとして形に残す事ができている。一回性のもので形に残す事ができなくても音楽もやはり芸術なのだと思う。ライブが今もたくさんの人を集めるのはその一瞬の音を心に刻み込みたいから。

 

翻って自分について考えていきたい。

自分も何かを生み出したい、自らの思考や思想を表現として具現化したいと強く思うように最近はなった。しかし音楽は挫折したし、美術作品にも疎い。

自分に残された最後の手段は文字を、文章を書く事しかなかった。

自分の思いを文字として具現化する事だけは小さい頃から大好きだった。

この事が仕事して生きる事ができたらどんなに幸せな事だろうと思う。

その強い思いに気がつくのにだいぶ時間がかかってしまった。

このブログ執筆にしてもそうだが、自分が作り上げた文章を誰かに読んでもらうという事はとても喜ばしい事だと感じるし、そこから何か感じ取ってくれる事があるのだとすれば冥利に尽きる。それがたとえ批判めいたものであれ、その事とも向き合いたいと思う。

クリエイターやアーティストは表現の形は違えど似通っていて、何か自分の中にあるものを現実世界に形に変える人たちだ。その表出された物であれ、音であれ、文字であれ、それが誰かに価値づけられて広く共感されたり、感動を与えたりもする。

この世界には作る側とそれを享受する、現代的にいえば消費する側に別れるだろう。自分は今後者である。誰かが作ったものを受け取るしかできない。

でも前者になりたいとも思っている。自分の文章がいつかどこかの知らない誰かに受け取ってもらい何か感じ取ってもらえる、もしかしたら今もこの文章を知らない誰かに読んでもらいたくていまこうして文章を作り出しているのかもしれない。

その事で一つ思う事は、何も作らない、表現しないまま生きるのは死んでいるのとかわらない。ただ人の作品を享受する側ではクリエイターやアーティストとしては生きていないと思うのだ。そんな思い出自分は作る側になりたい。

長い長い自分探し、自分の生き方探しだったけど、ようやくたどり着けた。

後はこの道を進んでいくだけだ。もちろん険しい事には変わりはないが。