日々の怒り痛み苦しみ絶望
最後に人に怒ったのはいつだろう。
人に怒るのは苦手だ。自分が人に怒られる事が得意じゃない。
学生当時怒られるとなんでこの人はこんなに怒っているのか不思議だった。
自分が悪い事をした自覚はもちろんあって、それでもどうしていえばわかる事を
感情たっぷり込めて人にぶつけてくるのかわからない。
「怒られ慣れる」なんていう言葉があるが、それはおかしい。
嫌な事は繰り返せば慣れるわけじゃない。嫌いなものは嫌いだし、
そんなものに慣れるべきじゃないとも思う。
人に物事を教える事になって、怒らないといけない場面が出てくる。
極力感情を表出せずになぜいけないかを淡々と話すけど、
それだけでわかるほど人間は物分りが良くない事もなんとなくわかった。
「怒る」は難しい。人を説得する必要がある。
翻って「怒り」についてだ。
今「怒り」を感じている。
なにが原因かわからないがなんとなーくイラついている。
いや嘘だ。原因はわかってる。
わかってるからこそなぜ自分が怒りを覚えているのか不思議なのだ。
そんなどうでもいい事で怒るなんて自分に呆れるほど。
ふとこの感情が「怒り」である事にさっき気がついた。
その自分のもやもやを形容する適切な感情が「怒り」だった。
なるほど、こう考えると「怒る」と「怒り」は少し違うのかもしれない。
喜怒哀楽の感情の「怒」は多分「怒り」であって「怒る」ではない。
誰だって怒りは覚える。所謂怒らない人でも怒りは日常的に覚えてるはずだ。
ただしこの「怒り」の感情は明らかに他の感情よりも表出が難しい。
喜びや楽しみは好意的に受け取られる。
哀しみも時として負の要素を孕むが、概ね好意的に受け取られるだろう。
しかし「怒り」は違う。
基本的に好意的には受け取られない。
「怒る」時は必ず相手を説得できるように、なぜ自分が怒られたのかわかるようにしなければ、それはネガティブに受け取られるだろう。
自分のように納得したい人間もいる。
当時から怒られた時に納得した事がなかったから怒られるのが苦手なままだ。
怒りは他の感情と密接に結びついている。
それが痛みとなり絶望にすり変わる。
怒りは強い感情であり、人を傷つける強烈な刃になる。
だからこそ扱いが難しい炎のようでもある。
しかしこの感情がややこしいのは、それを表出しないと苦しいという事だ。
こうして文字に起こす事はその一つの表出かもしれない。
自分ではどうしようもない事を文字に還元して吐き出す。
こうやって日々蓄積されてきたものをどうにかする。
それができないと痛みに変わって自らを苦しめる事になる。
みんなどうやってこの感情と折り合いをつけているのだろう。
この今抱く感情にラベルをつけるなら
「俺には背負えないし本気で向き合うのが阿呆らしい」
という事。南無三。