A fact of life

25歳 院生 直面している現実

「社会人」と「社会不適合者」の間で

なんやかんやあっても人生は続く。

就職活動に失敗してとりあえず来年から正規雇用としての形態での就職の可能性はなくなったけれど、普通に日常生活は続いていく。

それは自分が院生ということもあって、学生という身分を保証できているから、

そこまで絶望に身をおくことなくある種「いつも通り」生きている。

 

この学生の身分証がなかったとすれば直ちに自分は社会から白い目で見られるだろう。

某有名大学の大学院生っていう肩書きは、モラトリアムを満喫するには十分で、

そういった社会からの鋭い目にされされることなく遊んでいられる。

最近はどちらかというと年齢的なところの目が気になるくらいだ。

学生証がなければただのニート、いやバイトはしてるからフリーター。

 

本題に入る。

留学の準備を進めるにあたってアルバイトの整理が進んでいる。

8月に出発するけど、もう7月中にはすべての仕事(三つ)をやめる手はずを整えて、

先週ひとつの仕事を終えてきた。

業務上あまり詳しいことは言えないが、およそ1年半の間続けてきた仕事だったし、

そこで関わってきた人があまりにも楽しかったので、

さすがに少しだけやめる時寂しさを覚えた。

院生の生活は宙ぶらりんで、定職についているわけではないから、

生活のイニシアチブを握っているのは自分自身で、

やろうと思えば全く人と関わらないで、自分のからに閉じこもることだってできる。

ともすると、殻にこもりやすい自分にとっては適度に人間と関われる仕事は

よかったし、特に自分にとって居心地良く、居場所を感じられる場所が、

ひとつここにあるというだけで、別のところで何か嫌なことがあったとしても、

強く出れるというか、あそこに行けば居場所がある。

というのはとても大きなことだと思った。

そんな風に思える場所が自分にあったことが嬉しかったし、

今はぽっかり心に穴が開いたような少し寂しい感覚。

ただ現代は会おうと思えば会える、そんな風に思えばばなんだか悲しくなかったり。

ちゃんとお別れができたから中途半端にならずによかった。

祝われるのっていつもなんだか照れくさくて得意じゃないけど、

いますっきりして前に迎えられるのはそのおかげだから、意味あるんだなと。

また新しくそんな場所ができればいいと思う。

 

話は変わって、今週はなんだかいろんなニュースがあった。

自分に関連する?かはわからないが、お笑い芸人の記者会見の一件で、

ビートたけしさんが「自分たちみたいな人間は芸人じゃないと生きていけない。」

この言葉の中には語弊を恐れずに言えば「社会不適合者」的なニュアンスが含まれていたと思うのだけど、それってすごく自分にも当てはまるんじゃないかと思う。

自分の周り、、というか研究職についてる人見てると少なからず「社会不適合」的な

何かひとつの物事に費やすことができる人間は、他のことにまで気を払えなくなるわけで、それ以外のことはあまり得意じゃない。

「社会不適合」っていった時の「社会」が一体なんなのか。

働いている人一般をさす「社会人」が誰なのか。

自分はいわゆる「社会人」ではないけれど、ある種「社会不適合」感を自分に感じているわけですよ。そうじゃなかったらとっくに「社会人」として働いてるはず。

そうでないからこうやって研究して、勉強して、毎日過ごしてるわけですよ。

お笑い芸人さんを見ているとどこか他人事じゃないというか、

そうとしか生きれない人っていうものがあるんだとしたら、

たけしさんが語っていたみたいに「社会的な」生き方を強要する社会っていうのは、息苦しいなって思うわけです。(犯罪行為を肯定しているわけではない)

研究者っていうのが基本的には権威的なもので守られているだけであって、

根本的には、本質的には、そういった「社会的な」職業じゃないんだと

最近思うわけです。そうなろうとしている自分にとっては。

そうなろうとしてなるもんというか、そういう生き方を選ぶ?

規定されていく?よくわからんけど、あまり他人の生き方にとやかく言うのは

よくないなーって思った話です。

 

ってことでもう少しだけ今みたいな生き方を続けて生きたいわけです。

もちろんずっとこのままでいいとは思ってないですけどね。

何か次につながる何か…。