A fact of life

25歳 院生 直面している現実

人生における割り算とは。

思いついてしまったからかく。

本当はこんなん書いてる場合じゃないってのは自覚してる。

 

小学三年生だかで、日本の小学生は割り算ってのを習うわけです。

数字を違う数字で割るんです。割り算の仕組みとしては実は掛け算で、

掛け算ができれば割り算はできる。掛け算ができなかったら割り算は

できないし、同じことが足し算と引き算で言えると思うんです。

足し算できなかったら引き算できねーってこと。

そんでこの「割る」っていう概念が生きてく中ですげー大事だなと。

もっとわかりやすく言えば「割り切る」ってこと。

人間生きてれば割り切れない出来事ってのが、たくさんあるわけ。

本当はこうしたいのにとか、こうしたかったすればよかったみたいな。

割り算したけど、あまりでちゃったよとほほ。

これが割り切れなかった人生の後悔とかやるせなさなんだと思う。

んで、人間が辛いと思うのはそもそも出来事とかそういうことを

割れないこと。

割ったけど割り切れないパターン、あまりが出る時と、

そもそも出来事を割ろうとしていないこと。

仏教的な考えでいうと、物事への執着ってやつで、

この執着があるからこそ人間らしいとも言えるし、

反対にいうと生きていく上での障壁とか、苦しみの元。

この執着ってのがなければ、多分苦しむことだってないし、

物事を割り切れないみたいなことはない。

だって執着心がなければ出来事が割り切れないことが起きないからね。

 

人生においての割り算ってのを人はどう学んできたのだろう。

自分の経験則から行って、やっぱりどうしようもない経験をすることが、

割り切るっていうことにつながるんだと考えている。

どうしようもない出来事は語義通りどうしようもない。

自分が何かやったとしても何か変わるわけでも物事が好転するわけでもない。

そういう出来事に出会ったときに人は「しょうがない」ってことで済ませる。

もちろん「しょうがない」ですまない出来事はある。人の生き死にとか。

でも時間は不可逆なので、物事が元に戻ることはない。

そういうことをいろいろな出来事の中から学んできたんだと思う。

まぁ過去から現在を生きる上では割り切ってかないと前に進められないしね。

 

それで大事なのは未来の出来事をいかに割り切ってくかってこと。

過去の出来事とか、まぁ現在、近い時間において出来事を割り切れるように

なってきたとして、じゃあ未来の出来事は割り切ることができるかっていう。

人間が物事に執着するのは実は将来のことにもあり得るんじゃないかと思って。

執着っていうのをもっと簡単な言葉に換言すれば「こだわり」

だと思うんです。人が将来漠然と抱いている「こだわり」

結婚したいとか、将来この仕事したいとかいろいろあって、

そのこだわりがあるからこそ、自己実現として、現在の自分を

前にどんどん進める推進力になるんだと思うけど、

自分の場合この「こだわり」が強すぎてむしろ

前に進んでいく上での弊害になっちゃってるんじゃないかっていう話。

将来の自分こうなりたい、こうありたい像が強く、肥大化しすぎちゃって、

今の自分が自縄自縛状態になっちゃってるんじゃないかっていう。

こうなると苦しい。こうあらねばならない自分と現状のどうしようもない自分との

間で葛藤しちゃってる。葛藤というか絶望?うまくいかなさ、っていう

その感情はもしかしたらこういうところから起因しているんじゃないかと。

最近の自分の状態を考えて思うわけです。

 

なんでこうなってるかっていうと、今までの自分は進路とかを結構

棚上げして、将来を漠然としたものとして捉えていたから、

そんな悩まないで済んできていたんだけど、

その将来がぐっと近づいてきたことによって、

今までの遠い未来のこうありたい自分像みたいなものが

急に目の前に飛び込んできて、

いや自分まだそんな状態じゃないっすよ、みたいな。

急にその「像」求められましても。みたいな。

 

結局どうしたらいいんだっていう。今回の場合

学部生のときにやったみたいな将来の先延ばしはもうさすがに

通用しないし、もしそれをやったとしてもまた、

そのタイミングで自分が苦しむだけだと思うわけです。

そうしたらどうしたらいいんだよ、っていう話だけど、

ここで冒頭で話をした割り算の話。

もう将来像みたいなものを割り切っちゃおう。

そのイメージを解体していくしかないと思う。

それがない状態で生きていくのはどうなんかなと思うけど、

実際のところその肥大化したイメージを一つ一つ崩していく。

例えるならジェンガのような。

最近自分が思っている像の一つとしてあるのは、

「結婚」の像で、結婚を30歳くらいまでにする。

みたいな、25歳くらいになって急に近づいてきたイメージがあるんだけど、

もうこの像を解体する。割り切る。

別に30じゃなくてもよくない?結婚自体を諦めてしまうわけではなくって、

30までで結婚するというのを諦める。割り切る。しゃーない。

最終的に結婚して家庭が持てるのであれば30すぎちゃってもいいじゃん。

この30までで結婚のイメージが、この先の5年くらいの将来を考える上で

弊害になってると気がつくことがあって、

この観念に強く縛られていたのは、やはり多くの女性が語る30までに結婚

のイメージに引っ張られるからだと思う。

同年代の女はよくこれをいう。確かにその通りだと思う。生物学的な話でもある。

でも、自分男やし。生物学的に30すぎてもそんなに変わんないよ。

自分がこのイメージに引っ張られるのは同年代の、プラマイ2歳くらいの人と結婚することを志向していたってことで。

でもさぁ別に年齢近くなくてもよくね?っていう。

もうすっげー年下でも問題ないじゃん?みたいな。

そこに引っかかるのは世間的な目?みたいなものかもしれないけど、

それも割り切る。別に自分が幸せだと思える家庭が気づけるなら、

パートナーの年齢とか別にいいじゃん?

こういう割り切りをどんどんしていかなきゃならない。

でも今日一つ割り切った。もちろん、同世代くらいで相手がいればそれでいいと思う。

「どっちも」選択肢に入れること、そうやって思考の固定を外していかないと、

結局変わらない、自縄自縛のままだ。

小学校で割り算習っててよかった〜。