A fact of life

25歳 院生 直面している現実

ありのままっていう、個性っていう

バイトばかりしている。

8月に入ってからというもののバイトばかりしている。

時間がありすぎても何もしないことは7月末〜8月冒頭くらいまでで

よーくわかったのだが、バイト漬けの今は今で何もできでいない。

今までは遊べる程度に働いている時が多かったのであるが、今年に入ってからは

働きすぎている気が自分でもしている。バイトを3~4個掛け持ちしている。

(あくまでも同時進行ではなく、時期によってやっているバイトが違う)

それぞれで求められている能力?というか需要が違うので、

飽きはしないのであるが、それだけに疲れるのは異なる自分を使い分けている

感じがするからだろうか。

もちろん自分は同じ人間なのであり場所によって違う人間なはずが

ないのであるが、客観的に自分をそれぞれの場所で見ている人間がいるとすれば

「こいつ本当に同じ人間か…?」と思うくらいに自分は違う人間を演じている。

そうすることによって自分にかかってくるストレス?もとい面倒臭さ(雑)

を軽減していると思っている。なんとも胡散臭い人間。

でもそうすることが一番自分にとって「楽」。

なんだと思う。もちろん学校でもそうだし、誰かと会っているかにおいてもそう。

素の自分とか、「ありのまま」の自分とかそんなもの本当にあるのか?と思う。

というかあったとして、自分はそんな生々しい、おどろおどろしいものを

人にひけらかすことのできない卑屈な人間です。

そんなことするくらいなら、皮をかぶって、仮面をかぶって

「本当」の自分を家でこっそり隠していたいなぁと。

あの曲(レリゴー)が流行っていたあの時期に自己啓発的にあの曲が

さも皆の目を覚ましたかのような、ありのままの自分でいることが

とても素敵な事ような、あの曲が響くような人たちはどんな生き方を

強いられているのだろう??

あの曲を聞いた事で「ありのまま自分」で生きていることが

できるように、または生きようとしているのか。

似たような話がある。

「ありのままの自分」を「個性」という言葉に言い換えてみたい。

学校教育の場で「個性」という言葉はよく出てくる。

主に生徒が自分たちの自由を認めてもらいたいときに、

「個性」を認めてほしい、というときとか。

彼彼女らのいう「個性」は、染髪だとか、ピアスだとか、服装のことを

指していることが多いのだが、この「個性」という言葉も

「ありのまま自分」の仲間?というか自分にはふわふわした

ゆるキャラみたいな響きがあって、いまいち刺さらない。

というか端的にいってしまえば胡散臭い。

とりあえず上述したようなアポステリオリなものは「個性」とは言わないと思う。

自分の「個性」ってそんなにわかるもんか?

「多様性」を認めてほしい、というのはわかるけれども

その「個性」だとか「異質性」(他人と違っている事)

っていうのは結局、同質な空間の中からでしかわからないのでは?

まぁ「同質な空間」っていうのも架空の空間ではあるが…

少なくとも、ちいちゃい子でバリバリに「個性」を

発揮している人っているのかなぁ、と。

この「個性」っていう言葉が抽象的でふわふわしているから捉えどころがないだけかもしれないけれど。

「大人」の味方をしているように見えてきて、自分も年をとったと思う。

はぁ、明日もバイトだしそろそろ寝よう